2023連合静岡 平和行動in広島
国民運動局
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2023年8月5日(土)~7日(月)の3日間、伊佐地副会長(電機連合)を団長とする14名の団を組んで、連合静岡 平和行動in広島を実施しました。
初日の午前中は移動のみでしたが、正午過ぎに現地・広島に到着すると行きつく暇もなくさっそくピースフィールドウォークへ。まさに「酷暑」と言える厳しい天候でしたが、およそ1時間半にわたり慰霊碑や記念塔などをご案内くださった連合広島およびPATの皆様にご丁寧に平和記念公園内の各所をご説明いただきました。
「広島にはプライベートで行ったことがあるよ」という方も多いでしょう。しかしその際には「平和祈念資料館」と「原爆ドーム」くらいしか見てないのではないでしょうか?平和記念公園の中には、被爆して亡くなられた方々の多くの碑やそれを祀っている場所が数多くあります。それらを現地の方々のご説明を聞きながら訪ねると、それまで広島を訪れたことがある方だとしても「いままで広島に行ったことがある」などと言っていた自分が恥ずかしくなります。それほど平和記念公園はいろんな思いや記憶が詰まった貴重な場所なのです。ですから私たち参加者は本当の意味で貴重な体験をしましたし、この平和行動の意味を深く理解することができました。
ピースフィールドウォークが終わると、そのまますぐに場所を移動し、「連合2023平和ヒロシマ集会」です。昨年まではコロナ対策のためマスク着用・手指消毒を実施した上で、座席の間隔も開けながらの実施でしたが、今年からは4年ぶりに多くの方々が参加する、まさに「コロナ禍前」の状態に近い形で開催されました。
開会直前になってしまいましたが、各地協の方々が祈りを込めて追っていただいた千羽鶴を、伊佐地団長から検討させていただきました。偶然にもお近くに芳野会長がいらっしゃったため、ツーショットで献納される姿をおさめることができました。
連合広島の大野会長のご挨拶から始まり、続いて会場全員で1分間の黙とうが捧げられました。連合・芳野会長や多くの団体代表の方々からのご挨拶は、平和に対する強い意志が込められた私たちの心に響くものでした。
そして被爆体験としてお話された箕牧(みまき)様による語り部講話。この被爆者体験証言はいつ誰から聞いても胸が締め付けられます。そのお話は寓話ではなく78年前にこの広島で起こった『痛烈な事実』なのです。
集会の終盤には高校生平和大使による若者からのメッセージ。広島や長崎からだけでなく日本全国から、「本気で日本の平和について考えている若者」が集まり、多くの「大人たち」に語り掛ける活動を日本内外で行っています。「こんな若い子達でも、真剣に平和について考えているんだ」と、大人の私たちは深く考えさせられます。
沖縄からリレーされた連合の「ピースフラッグ」は広島から長崎への引き継がれました。その後は北海道へと渡されます。
2日目の早朝。参加者全員が7時に集合して再び平和記念公園に向かいます。この日も朝からうだるような暑さです。原爆死没者慰霊式・平和祈念式は基本的には御遺族の方々のための会ですから、私たち一般の者は会場内(特にメイン会場)にまでは入ることはありませんが、それでも「私たちも平和を祈る気持ちは同じです。心はそばにいますよ。」という意味も込めて、参加者全員で平和記念公園に足を運びました。
私たちはメイン会場のすぐ横の遊歩道など思い思いの場所で式典の開始を待ちます。8時から始まった式典から漏れてくる音や声を聞きながらむかえた8時15分。黙祷。脱帽し、目を瞑り、頭を垂れて1分間。静まり返り、激しく蝉の鳴き声だけが響き渡る中で、心の底から平和を祈りました。
3日目は連合静岡独自活動となる被爆体験者による語り部講話です。今年お話いただいたのは、過去に7代目平和記念資料館の館長をつとめられたこともある畑口様。畑口様は昭和21年のお生まれです。
戦後のお生まれなのになぜ被爆者なのか。
広島にあの原爆が投下された昭和20年8月6日、畑口様はお母様のお腹の中にいました。つまり「胎内被爆者」ということになります。
畑口様のお話は幕末の鎖国時代、欧米列強による植民地支配から始まりました。そこから日中戦争、日露戦争など日本が軍国化へと向かうお話、第二次世界大戦直前の日本による朝鮮半島植民地化、満州への侵略、アメリカやイギリスやソ連との関係性等々、そこに至る様々な経緯や各国の思惑などを交えてお話され、これまで聞いたことがあるお話にも増して分かりやすい内容でした。
広島市からおよそ15kmほど離れた廿日市市の実家で、お母様は畑口様を身ごもった状態で原爆投下の時を迎えました。交通が少し回復した原爆投下から4日後、お母様が広島市内で被爆したお父様を焼け野原へ探しに行ったことで、お腹の中で被爆した畑口様。お父様は亡くなられていました。畑口様はお父様のお顔を知りません。お父様はおそらくお母様が身ごもっていたことを知らなかったと言います。お父様もまた畑口様の存在を知らずに亡くなられたのです。お母様はお父様の職場から懐中時計とベルトのバックルだけを探し出し、遺品として持ち帰りました。
それからは被爆者であることを隠しながらの苦しい生活が何十年と続きます。今でこそ被爆者の方々の存在は知られ、認められていますが、当時は被爆者であることが「恥ずかしいこと」だというのが世の風潮として強くありました。ですから被爆者手帳は持っていても、病院に行った時には無料になるはずのそれを掲示せず、一般の人と同じ料金を払っていたりしました。それが何の因果か平和祈念資料館の館長をつとめ、当時の小泉総理やオバマ大統領など各国の要人を迎え入れる立場にまでなられ、いまでも「原爆の恐ろしさ」を語り継ぐ語り部としても活躍されています。
文章が長くなってしまいました。しかし、これだけ書いてもお聞きしたことはもっともっとあります。ここだけでは書ききれないことをたくさん教えていただきました。
戦後78年。実体験として原爆投下を語ることができる方の高齢化により、矍鑠と語れることができる方々は年々少なくなっています。貴重な生の声がもうすぐ聞けなくなるのです。この問題をどうしていくのか、これからどのようにすべきなのか、課題は多く残っています。
今年だけでなく、これまで平和行動に参加した人、これから参加する人の責務は「現地で見て、聞いて、感じたことを伝えること」です。それが役割です。平和な日常は当たり前ではありません。しかし私たちが安心して働き、暮らすことは平和であることが大前提です。
様々な方々にお世話になり、多くのことを学ばせていただいた3日間でした。ありがとうございました。
(写真は参加者全員が共有するグループアルバムから掲出させていただいております)